KojimaDaigo BLOG

日常絵話 NichijoKaiwa

アート・スピリット

 前回は、ニューヨークの美術館で発見したウィンスロー・ホーマーなどの作品で快感を得て、絵画制作活動に対する疑念のようなものが大幅に払拭された、という話を書きました。

 感動というよりは「快感」。この辺の話は私の作品集に少し詳しく書いたので割愛しますが、要するにカラダに伝わるようなことなのです。「なるほど」とか「理解する」ということではなくて、あの時何が起きたのかよく分からないけどカラダが痺れて固まるような状態になった。自分には異変が起きて何か気持ち良い状態でその世界に惹き込まれて、自分でもそれは分かっている。性的な体験に近いのではないだろうか。それを感動と呼ぶんだと言えばそうなんだろうけど、「スゴイ」とも思わなくてもっとフィットした感じであまりにしっくり来すぎて気持ちいいのだろうと思う。あと、古い言葉で「眼福(がんぷく)を得る」という言い方があるけど、たぶんそれとも違うと思う。
 そうやって初めて快感を体験した後は、色んな女性、じゃなかった絵画と作家を知った。 そして絵画の快感が忘れられなくなり、それまで人物画ばかり描いていたのが、絵画と言えばまずは風景画だ!と思うようになり、ホーマーをきっかけに好きな絵を次から次へと発見するようになっていった。代表格の画家を列挙すると、

1. ジョン・シンガー・サージェント
http://www.wikiart.org/en/georges-seurat

3. ジョン・スローン

5. ジョージ・ベローズ


http://books.spaceshower.net/this_is/

 ざっとこんな感じでしょうか。
 スーラや、イラストレーターのロックウェルは知っている人も多いかも知れない。ちなみにフランス人のスーラ以外は全員アメリカ人。
日本人だとやっぱり東山魁夷や小野竹喬もいい。亡くなっている人ばかりだが、現役作家では、ゲーリー・ケリーはもちろん、ジョン・アサロ、ジョン・イングリッシュ、ダグ・チェイカなどがいい。
 芸術の都はパリなのだからもっとフランス人の名が挙がっても良さそうなものだが、私がパリに行ったことがないからフランス人作家がなかなか入ってこないのかも知れない。
 だがフランス野郎どもに負けてられるか、と言って反発したアメリカ人作家がいる。ロバート・ヘンライだ。私は画家としてよりも指導者としてのヘンライが好きだ。それは「アート・スピリット」という名著を書いたからだ。
 この本、原著で出版されたのが1923年で、日本語翻訳版の出版が2011年。88年後って翻訳版すごく遅くはないか?でも丁度私がヘンライのことを知った直後に出たから間に合ったというか丁度良いタイミング。
 たぶんヘンライの師匠格だったトーマス・イーキンズ(アメリカ近代美術の父、と言われている画家)も偉いけど、ヘンライは「ジ・エイト」という「七人の侍」ならぬ「八人の反骨若手画家」のリーダーだった。ジ・エイトはその後のいわゆるアメリカン・シーン派の源流になっているようだ。それは写真や映画の美術においても多大な影響を及ぼしていて、私の好きな映画の数々の名シーンのおおもとがある気がしている。私がアメリカ人画家を好きになるはずだ。
 言うに及ばずアメリカ映画は全世界を席巻して、それはつまりジョン・フォードに影響を受けた黒澤明の映画作品にも大きな痕跡を残したと思う。ひいては今もてはやされている現代アートにも通じているかも知れない。
 ジ・エイトはアシュカン・スクール(ゴミ箱派)と蔑まされたらしい。ゴミ箱でもアートと思い込んで描いてしまうおかしな奴ら、という意味で、私の好きな、ジョン・スローン、ジョージ・ベローズはその「八人」のメンバーだ。絵画作品だけでなく、こんな話だけでもドラマチックではないか。ついでに言うとヘンライの写真を見るとその面構えも悪役の侍みたいで凄くいい。

 こうして自分の好きな画家の名前を、作品などを想像しながら一挙に書き出していくと、錚々たるメンバーでキャラクターが傑出してオールスターみたいだ。でもまあしかし興味ない人にとっては何のこっちゃという話なんだけど。
 そう、日本に戻って美術ファンだと自称する人に、ホーマーの風景画が好きだと言ってもほとんど知っている人がいない。「ふーん」と受け流されたり「?」という顔されてばっかりだ。(つづく)


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ニューヨークで何があったのか

 絵が上手で多少の驚きと珍しさのほかに、私の周りには、絵を描くなんてのは「いけないこと」のようなモノの見方があったことも、もう一つ確かだった。そんなことしても苦労するばかりで儲からないよ、というわけだ。
 自分ですすんで「絵の仕事につこう」と決意し絵を描いていたものの、一部に好意的に見る人もいるにはいたのだろうが、1990年のその当時は、高度経済成長を経てオイルショックのあとのバブル景気で「儲けること」「儲かること」こそ正しく、金持ちならばいざ知らず、庶民が絵を描くのは分不相応で全く時流に合わず、まして何の下地もなく、不確かで、何の用も為さない、従って周囲の関心も無いという、三拍子も四拍子も揃ったかなり堅い空気が私の周囲にはあった。
 それによくあるパターンならば美大に入り直すとか、偉い画家の師匠につくとか、悪くてもそうした組織に属して仲間を作るとかして学び始めるものだろうが、何しろ「腕に覚え」があるのみで、相変わらず純粋美術に対する理解もほとんどゼロのまま。
 だからどうしたらいいのか頭ではよく分かっていないまま、ともかく毎日ウチで絵を描き始めた。そこのところ今考えても全くもってイタイ奴だ。痛々しくて悲しくなるほど。

 純粋美術とは違うが、応用美術であるイラストレーション(挿絵)の専門雑誌で知ったゲーリー・ケリーというアメリカで活躍するイラストレータ

●ゲーリー・ケリー 参考サイト



の作風が際立って好きで、アメリカ人の彼が講師をやっているアートスクールがニューヨーク(以下、NY)にあると知った。日本で彼のイラストを見かけることさえほとんどないが、なぜかアンテナがキャッチしていた。
 地元名古屋の留学相談センターで、音楽やダンス、アートなどの実技系留学ならば一か月くらい短期語学留学を兼ねてほかにあちこちあるアートスクールを視察に回ると良いときき、1993年、意を決して25歳の時に
NYへ四週間滞在してみることになった。初めての海外旅行であった。
 会社を辞めて渡米したせいか、憧れが強かったのか、NYというのは思い描いたそのままの自由な感じのいきいきとした街だった。四週間というのも今考えれば良いところだけ感じ取ってくるのにちょうどいい期間だったのではないだろうか。

 1993年のNYといえば、その後敏腕を振るって犯罪を激減させるジュリアーニ市長が就任する以前であり、まだ地域によっては銃声が響きわたるのも度々で、地下鉄は落書きだらけで車内でホームレスがいわゆる「ホームレス新聞」を売り歩いていた。携帯電話も一般に普及しておらず、ワールドトレードセンターは当時健在だったものの爆破テロ事件があったりした。
 なんか悪い話ばかり書いているけど、ここへ来る前も来た後もそういうものだと思い込んでいた。でも街の人は明るく、知らない人同士でもすぐに冗談を言い合い雑談に花が咲く(実際よくあった)、気取らない下町の印象だった。
 日本人にとってNYのイメージといえば洗練されていて金融でも芸能でも成功者のきらびやかなものかも知れない。私は中学生の頃ビリー・ジョエルの歌でこの街のことを知ったようなものだった。彼の歌うNYというのは、多様性に富みその相互作用、シナジー効果のようなもので知恵と活力が大きく働き者の街、まさに彼の「When In Rome」という歌の内容そのものだった。いわく「ハンマーを振り下ろして石を砕け  ボタンを押して電話に出ろ  朝にはコーヒー夜にはマティーニ  誰もがものすごい食欲だ  何はともあれ『郷に入れば郷に従え』…(山本安見 訳)」、涙は見せず、笑う時には大声で少し下品に笑う、世界のあらゆる文化を受け入れ人材の層が厚く、クールというよりパワフル、といったものだ。またNYで生まれ育ったビリー本人は昔ラジオ番組のインタビューで「ロサンゼルスでは隠れて嘘をつき、NYでは正面切って騙す」とブラックなご当地のことわざを紹介してNYを言い表していた。

 マンハッタンの品の良い老婦人のマンションで暮らし(ホームステイ)し、平日は語学学校で学び、午後2時3時位からいろんなアートスクールを回る。日本人の学生がいれば紹介してもらい話を聞くことも出来た。週末も色んな所へ出掛けるという日々。10月だったので屋外でも過ごしやすい季節だった。
 そして観光のつもりでメトロポリタン美術館に行った時にそこで偶然、ウィンスロー・ホーマーという19世紀の画家の風景画を見つけてしまったのだ。最初に見たのは「Gulf Stream(ガルフストリーム)」
だった。
 そこでおそらく初めて絵画鑑賞に快感を覚えた。
●ウィンスロー・ホーマー 参考サイト:

 そのほかにもいくつかホーマーの絵を観て私が感じたのは、技術的にはどうか分からないが、鋭くて強くて、温かくて優しくて大らかで懐かしいような、あるいは「良心的」とでも言おうか、ともかく何と言っていいのか分からないが、圧倒的な良さがあった。
 「Northeaster(ノースイースター)」は
倉庫のようなガラスケースにはいっていた。その時ふと思った。こんな古臭い絵なんてきっと流行らないだろうし、これが好きだという人はひょっとしたら世の中にいないのかも知れないが、アメリカは一応自由の国なんだから、世界で俺だけ好きだと言ってもいいのだ。元々絵画というものは誰が何と言おうと、人の顔色など見なくともいい個人的な世界なのだから、そういう自分はオカシクも何ともないんだ、などと考えていた。
(つづく)


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絵の上手な子供

 私は小さい頃から絵(線画)が上手だったらしく、だから小学生の時はマンガ読むのが好きだったからマンガ家になりたかった。テレビの刑事ドラマみて「おれ刑事になる」、ピンクレディーが好きで「歌手になりたい」とみんなが言っている時期でよくある話だ。

 だから中学に入ってまもなくタイガーマスクが颯爽とデビューし長州力が暴れ始めてプロレスブームが到来した時には、マンガ家の夢は何の執着もなくあっさり捨ててプロレスラーになりたいとぼんやり思っていたものだった。

 そのマンガ好きの小学生はマンガ上手であり、似顔絵上手のプロレス好き中学生となり、デッサン上手の高校柔道部員になった。

 ところが、いわゆる純粋美術となると、まるで関心の無い単なるニキビ少年だった。まったく関心無いから執着も熱意も無い。あるのはニキビだけだった。

 学校の行事なんかで何か絵を描く必要があるという時、校内での私の評判を知ってか、クラスのほとんど全員が、毎度決まって一斉にオレを見た。

 小・中・高の12年間ずっとそうだった。いや、今なおそうなんだけど、中学以降に関しては、美術の授業でみんなの前でどんなに褒められても、絵や美術が「好き」だなんて自分の口からほとんど一度も言ったこともなく美術に対する憧れや志など微塵も無かったのに、ただ上手いというだけで、よく作文集の表紙や、文化祭の何かのポスターとか運動会の看板描きみたいなのにかり出された。実際周りの人にはウケも良かった。

 中には私のことをまだ知らない子もいて、目の前で突然すらすらと完成度の高い(とくに立体的な)ものを素早く描くと、驚きと奇異の目で見るのだった。少し興奮しながら「どうして上手いの?」とよく質問されたが自分でもよく分からない。習ったわけではないし、中学・高校の頃は絵がとくに好きなわけでもないので説明出来ない。「でもすごーい上手!」と言われると照れくさくてかえって恥ずかしい気分。

 そうして学校行事などででかり出されて「面倒なことを引き受けてしまった」と思う一方、どうして周囲の人々は文字は書けるのに自分の様に絵が描けないのか、なぜ「絵は苦手」と決まり文句のように言うのかが不思議でよく分からない、などと感じていた。そして面倒とはいいながらも、頭の中でこう描こうと思い着き(着想)さえすればすぐに没頭出来てしまうのだった。

中学の卒業式の帰り道で、普段は会って話しなどしないいつも学年成績トップの優秀で有名な子から「いつも君の事を尊敬していたんだ。勉強ができるより絵が描ける方がよっぽどいいよ。」と突然「告白」されてとても驚いた。

小学校の時よく遊んだ友達が中学でギンギラの大不良に変貌していて校内で俺を見つけた時に「こいつは絵が凄く上手いんだ、スゲーんだ」と取り巻きの連中にガラガラ声で自慢していた事もあった。言ったあと彼は「オイッ!」と怒鳴りながらピースサインを出すと真後ろにいた茶色い髪の同級生が銀色のケースからタバコを一本取り出しピースサインの指の間に差し入れ、それを口にくわえるとすかさずさらにもう一人の付き人がライターで火をつけたりしていた。その威圧感充分の取り巻きの人々も私のことをしげしげと眺めていた。

 高校では美術の授業をさぼってばかりいたにも関わらず、美術の教師から「君なら◯◯芸大に推薦してあげられるよ」と言われ、何を言っているのか理解出来ずに好意あるありがたい話をあっけなく断ってしまったことさえある。

 高校の同じクラスに美大進学を希望する女子生徒がいて、目の前で「へー、おまえが?」と言ったら後で泣いていたらしい。深く傷ついてしまったのは、どうやら私が校内でも最有力の「評判の腕」にもかかわらず絵や美術に全く理解が無いという点が、気分で滲み出たんだと思う。 あとで同窓会か何かで本人から聞かされて申し訳ないことをしたと深く反省した。自覚というものがまるでなかったのだ。

 絵が上手なのに当事者はそういうことに興味ないという少年だったが、大人になってお金を稼ぐのはこれなのだろうな、というのはぼんやり漠然と気づいてはいた。

 そこで一度、絵と直接しっかりと正面から関わってみようと思ったのが21歳の時だった。

 なぜか「腕に覚え」があり、「きっと何か出来るだろう」と闇雲に行動に移した。 こうやって活字で書くと現実はさておき、何やら若者らしい積極的な態度だが、いかんせん「熱意」に大幅に欠けている。 何となくほかに大した特技もないので「絵の仕事につこう」という程度の話で、明確に目指すものがあって情熱的に走り出していく、というものでもなかった。第一目指すものって無かった。(つづく)

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初めての個展

 最初の個展の時の作品価格は、一点五千円から数万円位で、一週間の会期で十数点か二十点近く売れた。それは知人が三点位、あとは見知らぬ絵画の愛好家が買って下さった。 

 もともと知人に絵の好きな人などほとんどいなかったし、絵画の話のできる友人などいないところで絵を描いていたのだ。 
 しかし一人、東京芸大出身の大手広告会社のデザイナーで、趣味でずっと絵をやっているKさんがいた。絵で親しかったそのKさんの個展に誘われて行ってみたら、Kさんがその会場となっている画廊の老主人のところに「この人(私のこと)も絵を描いているんですよ」と私を紹介。「作品があるの?」ときかれ、その時すでに旅行で描いたものがあったので、「えーっと、まあ」と言うと、「一度持ってきなさい」となり、見せに行ったら一発で「これならイケル」となった。
  個展を開くにあたって色々アドバイスして下さり、というよりも、ほぼその画廊の関係者に宣伝から設営、接客、売り込みのほとんどをやってもらった。
  作品価格だけは自分で決めたけど、あとはほぼ言われるがまま。当時の本業に追われてあまり時間もなかったし、やり方も知らないしで、もちろん会期中に私はほとんど不在であった。準備で「そんなことまでするのー?」と面倒な顔をすると、「どうしてもやらなきゃならない!」と周囲の方達に叱咤激励、鼓舞された。 
 当時は自分が描いた絵にサインなど無く、それは専門家に言わせれば「責任逃れ」で「どうしても必要なもの」であるらしいと、それまでにも指摘を受けていた。そこでもやはりサイン無しではまずいから書いて欲しいと言われ、40点くらい展示作品あったから割とぞんざいにその場でそこらへんにあったボールペンでザクザク書いたら画廊の女性達からも「こんな小学生がイタズラ書きしたようなサインでは…」とあきれられてしまった。
 
    しかしまあそうやって何とか会期初日を迎えた。そこで初めて「絵を買う人」がいることに気づいた。売っておきながら言うのもナンなのだが俺の絵を買うなんて…、と正直驚いた。 
 この時まで、頼まれた絵を描いて報酬をもらう請負のケースはあったが、純粋に自分の創作で描いたものを販売することなどほとんどなかったし、もとはといえば売る為でもなかったから買う人がいるとかいないとか以前の問題だった。 
 その中にはプロの高名な超ベテラン画家もいて、私の不在中に作品の購入予約を入れて下さっていたらしい。これには私だけでなく画廊関係者もさすがに驚いていたようで、その時の模様をその画廊の女性が「これはすごいことなんだ」と興奮気味に話すのが今思えば可笑しかった。(高名といっても、門外漢の私には誰だか分からなかった) 
 後日私も直接お会いしに行ったのが、その方が理事をされている団体の定例美術展。 大規模なピカソ展などもやる愛知県美術館の中でも最も大きな会場で地元東海地方の有力新聞社やテレビ・ラジオ放送局、各地の教育委員会などが支援しておりその偉容さにやや圧倒された。まっしろでだだっ広く天井も高い受付でおたずねしたところ、そこから控え室に受付の女性が呼びに行く距離がやたら遠いのを妙に覚えている。 
 遠くからヒョコヒョコと小柄で痩せこけたヒゲの老人が歩いてくるのが見えた。その後方にはスーツを着た「お付きの人」らしき数人の男性も見張っていた。見た感じ80歳は越えている。こちらから挨拶をしたが、老人は面倒くさそうに黙っていて、私を睨みつけながらいきなり「あんたポロか」とぶっきらぼうに言う。「ポロ?」ときき返すと「プロか!」と怒鳴られた。「いやプロじゃありません」と答えると、ざっくばらんに「ああ、あんだけ描けりゃあ上等だ」と言った。 
 画廊の話のよると、この関西出身の日本画家は、画廊で絵画展示をする時によく来る、滅多にヒトの絵を褒めない「酒飲みのムツカシイおじいさん」らしいのだが、私の絵と個展そのものをいくつかの要点を細かく挙げながら「この人はとてもいい」と言ってめずらしく喜んで帰ったのだという。初めて個展をやったのに、そんな出来事があってやつらが多少興奮するのも無理ないなと思った。(つづく)
 
 小島大吾 ロードアート事務局
 
美術出版 原青社 
 
 
 

こうなったいきさつ

 今日、2016年5月24日火曜日から、今年8月初旬まで、私の名前のブログに、「日常絵話」を毎週一回、書くことになりました。日常の中の絵の話ということで、絵画の話を書きます。
 私は今47歳のプロの画家で、名古屋に住んでいます。エラソーに「プロの画家です」とはいうものの、師匠もいなければ美大芸大も通っていたわけではない門外漢です。絵で食っていけない時もあり、アルバイトみたいなことで食いつなぐこともあります。とはいえ、ありがたくも支持して下さる方々もいて、超マイナー出版社ではあるものの小さな作品集が五冊あります。そして現在の予定では、おそらく来年春までにはさらに五冊増えて合計十冊になっていることと思う。
●美術出版 原青社 より発売中

 その出版事務所に私のパーソナルなプロダクション(絵画作品展企画製作)もあり、原画作品展なども今後開かれる予定です。
●小島大吾ロードアート事務局 公式サイト

 職業は画家です、と言うとよく「好きなことが出来ていいね」などと初対面にも関わらず出し抜けに言う人がいます。職業と言っただけで別に殊更に「好き」と言っているわけではありません。他人より少しばかり絵を描くのが上手で、ほかに取り柄がないのでまあ何となくこんなことでもいいから頑張ってみよう、と潔く続けてきただけの話です。絵が得意だと、得意になる以前から好きなんだ、と勘ぐる人が私の周りにはとても多いのです。
 そもそもは21歳の時、「絵を描く仕事につこう」と独学で絵を描き始め、25歳の時にアメリカの風景画家を知り、32歳の時(2001年)に初めて個展をやった時に自分の風景画が少しばかり売れたのです。
 おそらくこれまでの転換点はこの三つに絞られる。今の私の活動はその延長線上にあると言える。つまりこのブログも。というわけで、これからしばらくは、その辺の話をしていきたいと思います。 (つづく)

5/24(火)からブログ開始

来週火曜日から8月初旬までの約二か月半、毎週一回、絵画作家・小島大吾の書き下ろしでお届けします。 プロフィールや活動スケジュール等は、 
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ロードアート事務局公式サイトのご案内

私の絵画作品取扱をする美術出版 原青社 とロードアート事務局から、 公式サイトが開設されました。 http://www.genseisha.org/gss/_road-art.html どうぞよろしく。