KojimaDaigo BLOG

日常絵話 NichijoKaiwa

遊びと芸術の時代(最終回)

   遊びと芸術の時代が既に始まっている。「芸術」とは先日この稿で私の説明した美術、文芸、音楽、演芸演劇、ゲームスポーツ、及びそれらの応用分野で多岐にわたる。

   「遊びと芸術」といっても呑気な話をしているのではなく、例えばこれがない街や村は事態がより一層深刻になっていくだろう。活力が失われ人が減り金が無くなり、村も山もそっくり海外の資産家にでも安く買い叩かれて、そいつの出資した企業によって都会であぶれた若者が安く雇われる。合理的だがそれは何だか新たな奴隷システムのようでもある。

   人も同じような話があって、その作品で一体「何が楽しいのかよう分からん」と理解が無くなってしまうのは作家の問題であると同時に、受け手の問題でもあるだろう。「馬の耳に念仏」「猫に小判」「豚に真珠」ということわざもある。人が馬猫豚になればその人生はまた深刻にならざるを得ない。というより、分からなくなった時に人が馬猫豚に変わるのだ。

   「遊びと芸術」がすでに豊富に受け継がれているのは多くのヨーロッパ諸国で、いつでも博物館などに行って勉強さえすれば、あるいは街を歩いてみるだけでも、いかにこの街が愛すべき土地であり、大切に扱わなくてはならないものかが見えてくる。それは「付加価値」ともいう。

   アメリカ、カナダ、オーストラリアなどは日本よりもうんと歴史の浅い国だが、常日頃からこれに時間と手間をかけている。博物学などの学問が根付いているということだろう。古い物に一目を置くという発想や価値観はきっとそこから来ている。

   私は歴史小説家の司馬遼太郎のファンで、先日もNHKで興味深いテレビ番組を観た。その中で登場した秋田藩藩士で下級武士の「栗田定之丞(くりたさだのじょう)」は良心の塊のような熱い人で、インパクトが強かった。俄然、その地域への興味が湧くというものだ。司馬さんは小説家として現実のそうした付加価値の発掘作業を行なった芸術家だと思う。他の小説家と大きく違う点だ。

   美術作家も、いうまでもなく「遊びと芸術」の提供者の一人で、この時代の重責を担っているんじゃないだろうか。


   美術作家はおおむね4つのタイプに分かれる。

① 教員タイプ

② クリエイタータイプ

③ 変人タイプ

④ 仙人タイプ

今最も勢いのあるのは②のクリエイタータイプだろう。このタイプは「自由と華やかさ」が売りで、流行を捉えるのがうまい。しかしその分刹那的で節操がなく単なる寂しがりやのお祭り好きとも言える。なぜ「クリエイター」と呼ぶかというと、今やクリエイターという職種や名称はありとあらゆる世界に広がっており、美術家がその彼らの象徴だと見るからだ。

   ①教員タイプのセールスポイントは何といっても「豊富な知識」。とにかく詳しい。「いろはにほへと」を最後まで言えないと芸術家の資格無し、と真面目に言い切り、諭すところがある。良くも悪くも。何だって基本が何より大切だというわけだ。

   ③変人タイプは他人からすればかなり掴みどころがなくて付き合いづらいが、その実天性ともいえる鋭敏な洞察力とバランス感覚で「奇異な表現」を目立たせ、時に神々しさを放つ。これをカリスマ性と受け取る人も多いと思う。

   ④仙人タイプは究極の引きこもりなわけで、自然界を注視しているうちに本人自身が自然と同化してしまったのだ。流行など全く気にしないので一見ひねくれ屋に見え世間に疎い。しかし自然同化派なのである種の「本物志向」である事は間違いない。東京都庁にあるモニュメントの一つを作った彫刻家に、愛媛県の人里離れた山中のアトリエで偶然会ったことがある。「僕は麓の人からは仙人って呼ばれているんだよ」とご自身でおっしゃっていた。話を聴くと朗らかだが、離れた所から見ている人には、山の中で一人きり黙々と働く姿は仙人に見えたのかも知れない。

   他にもいろんなタイプがいて、何年かごとにいろんなタイプを経ていく作家もいるだろう。

   日本人はこれから全員でクリエイティビティ(創造性)を発揮していかなくてはならないのだろうと思う。もうそうでもしないと仕方ない。海外からカネを稼ぐためにも、友達を作るためにも、「遊びと芸術」に手を染めなくてはならない。何を呑気なこと言っている、と真面目ぶった事を言っているうちに、経験も知識も感性もある「遊びと芸術の上達者」が実権を握る時代がもう既に来ているのだ。


   さて、このブログでは、元々旅行風景画を描く人なのに、旅の話をほとんど書いてこなかった。旅の出来事は作品集に沢山書いているのであえて避けました。

   最後にとても気に入っている海外の動画を紹介します。以前にもこのブログで案内しましたが再度。ジョージ・ベローズの作品展「The Art Of Boxing」を紹介する短い映像です。

https://m.youtube.com/watch?v=E3OmAaasGnA


   お読み下さってありがとうございました。(おわり)



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「日常絵話 NichijoKaiwa」は、

これで終了です。

これまでの12週間、お読み頂き、

誠にありがとうございました。


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絵画作家

 私はあえて「画家」ではなく「絵画作家」と名乗っています。

 画家というのは世間では絵が上手い人で、描写力があることだと捉えられているのではないかと思っていて、私は全くの素人の人よりは上手かも知れないけれど、プロの世界ではもっと凄い人がたくさんいて、また、キチンとキレイに描く職人と間違えている人が世間には多いように思っているのです。それは画工とも言うらしい。そういう事が私には出来ないし、あまり興味がない。画面が少々汚くなっても「絵心」があればいい、というくらい。そういう要因がいくつかあるので、ようするに画家という名称にやや抵抗があるのです。ちゃんとした画家の教育を受けた人にはこのあたり理解出来ないかもしれない。

 そこで自分で考えたのが「絵画作家」。絵画を創作する人だと言った方が当たっている。専門は風景画なのだけど、そればかりを描きたいわけでもないので「風景画家」も違うしなあ。

 「作家」という名称はこれも世間一般には「小説家」だと思っている人が多いのではないだろうか。それはそうだ。ただ美術関係の知人ができると絵を描く人や創作活動をする人のことを、プロでもアマチュアでも、「作家」と呼ぶ習わしがあることに気づかされた。この辺りの話は先々週くらいから似た話が続いているのでちょっと鬱陶しいように思うかもしれません。ご容赦を。

 童話作家、陶芸作家、工芸作家、絵本作家、映像作家、「作家関係」はいろいろいます。分かり易く「画家」でも別にいいのだけど、一応ここで線を引いておきたいという小さなこだわりです。


 ついでにいうと先程の「プロ」「アマチュア」というのも、「玄人」と「素人」に勘違いされやすい。そう思っている人きっと多い。「まるでプロだなあー。」なんて褒め言葉があるくらいだから。

 アマチュア[amateur]は確かに素人という意味を含めているようだけど、アマチュアレスリングの金メダリストの吉田沙保里を素人と間違える奴はさすがにいない。アマチュアはあくまでも趣味であり道楽だ。明確に言い切ってしまう。吉田沙保里さんやその支援者が何といおうと、趣味・道楽だ。職業は綜合警備保障の元会社員で、今はフリーだという。でも少なくともプロ・レスラーではないよな。

 吉田選手のほかにも実はその芸術分野をプロ=職業としていない人々は大勢いる。有名な人もいれば、地方都市で活動を続ける無名だが一流の腕を持ったアマチュアの人が。そしてその方々は職業はまた別に持っている。


 1990年の夏、私がまだ絵を描き始めて間もない頃に知り合った版画家はその世界では有名な実力者でありながら、小さな本屋の店主だった。作品を店の片隅に飾っていて、それに目を留めた画商さんが、一千万円で譲って下さいと頼み込んだのをあっさり断っていた。版画家は複数の画商から頼まれたが、誰にも売らなかったというアマチュアリズムの人だったのだ。

   当時私は絵を売りたくてどうやって描けばいいのか活動していけばいいかをその方によく相談したものだった。私のプロ思考に真面目に熱心に応えて下さったので、おそらくプロ・アマの考え方をしっかりわきまえていた人だったのだと思う。

   世間には「自己満足」を良しとしない人が多いのかも知れない。というのも、自己満足の人をもろにバカにする人を何度も見たことがあるからだ。世間とはつまりそういうものなのだろう。だが本来アマチュアリズムという考え方は、自己満足こそ最も重要という崇高な思想なのではないだろうか。

 さて一方で、プロフェッショナル[professional]という言葉は、profess(公言[名言]する、自称[主張]する、専門の職業とする、などの意味~エクシード英和・和英辞典第2版 三省堂刊より)という言葉から来ている。記憶が曖昧だが他の書物でも「誓約する」という日本語訳を当てているのを見かけたことがあるけど、つまりどこにも「玄人」とか「上手」などという意味のことが書かれていない。まあ言葉というのは時と共に移り変わっていくものだから大して重要でもない。ただ、きわめて実力のあるアマチュア、実力のないプロがいる、ということをいいたいのです。

   さて来週はいよいよシリーズ最終回。(つづく)



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失われ易いもの

   相撲と同様に絵画も、力と技と熱意、そしてスタイルみたいなもので作品に魅了され、やり遂げた作者のことは、熱戦を繰り広げた力士と同じようにファンになる。

   今はインターネットで色々調べられる世の中なのだが美術作家というのはモノグサなのか恥ずかしいのか、気に入った画家の名前すらいくら検索しても出てこない例は多く、情報がなかなか拾えないもどかしさがある。

   欧米に比べて日本人の美術観がより一層厳しいのか、自分で作品を発表するのを躊躇している作家が多くいる気がしてしょうがない。それとも序の口力士のファンになることを恥だと思っているのだろうか。

   いわゆる「風呂敷画商」の暗躍で、作品が未公開のまま作家が死に、おそらくその後の活躍も失われる例も少なくないだろう。作品は個人所蔵になる場合も当然多いから。いわゆる「埋もれる」というやつだ。この失われ易いものに例えば出版物や作品展、オークションなどという方法は大変合理的だ。

   そういう私も自覚がなくて、プロになる以前は、描いて売れた絵の記録(写真など)を全く残していなかった。題名も含めて自分でも憶えていない作品がいくつもあるのが惜しまれる。「小島大吾」もしくは「Dk」などと署名のある絵をお持ちの方は、どうかその絵を写真に撮って個人的にロードアート事務局に内緒でメール送信して頂きたい。


   先週は「五つの芸術」という話を書きました。世間では、芸術というのはつまり絵画とか彫刻を指していて、気高くて上品で、貴族的なイメージがあって、…などというとてもステレオタイプな認識がどうも一般的らしいので、私はそれは違う、それもあるけどそんなもんはホンの一部であって本当はそれだけではない、もっと広大で巨大なものだということをここで再度言っておきたい。応用芸術、応用美術を含めれば地下水脈のようにあらゆるところに存在している。つまり生活とは根っこで結びついているようなもの。

   影響力の大きい人が「そんなものはアートではない!」と言えば言うほどアート、つまり芸術の世界全体は狭くてつまらないものになっていく。なぜかは分からないけど、今の日本の美術がそんなことを言っているうちにどんどんつまらないところにやってきてしまったことだけは分かる。ただし同じ美術でもマンガ界は世界に先駆けてずば抜けて多様化していて面白いものが作られたようだ。

   何なのかよく分からないものもある。「『何だこれは!』というのがアートなんだ」と岡本太郎さんはおっしゃっていたが、かの大家の意見に反論するようだけど、その言い方もやっぱり違う。ただその岡本太郎作品の根底には「何だこれは!」という以前に、共通してユーモアと優しさがあったように思う。

   じゃあ「芸術、アートって何だ?」と聞かれれば、大変冷たく機械的に申し上げてしまうけれど、美術、文芸、音楽、演芸演劇、ゲームスポーツ、の大別して五種類の作品である、と答えることになる。無用の事ばかりだ。遊びだ。建築や家具、服飾のデザイン(視覚物)は、これらを応用した「美術みたいなもの(応用美術)」だ。という事は、例えば絵を見て「もはや芸術的レベル!」という褒め言葉は意味の分からないコトバになる。もともと芸術なのだから「レベル」も何もない。ただ「美しい!」とか「カッコイイ!」と言えばいい。

   自分や多くの人が面白いと感じるものだけが芸術だ!と思うのは危険で、この五つの芸術の各作品は全て芸術だ。その内の一つを「良い、面白い」と思っているだけで、言い方に問題があるのだ。だからあんまり安易に「芸術」と言うのは抵抗があり戸惑いもある。聞いている方が恥ずかしい。アーティスト本人が、自分のことをアーティストもしくは芸術家とあんまり呼ばないのと同じなんじゃないだろうか。

   誰も評価しなかった作品が後日、ガーンッという衝撃のもとに物凄い名作だと多くの個人に認知される例は枚挙に暇が無く、この五つの芸術世界のそれぞれの歴史が承知している。それらは作者の意図しない魔法としか言いようがない。それを浅はかにも早々に排除してしまう態度も問題だ。それこそ自分の生活から芸術を、豊かさや良心の様なものを失って、薄っぺらで、成熟さや個人の魅力をわざと遠ざけていくような気がする。(つづく)



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五つの芸術

 大相撲七月名古屋場所五日目に33連勝中の横綱白鵬を小手投げで裏返して金星を挙げた幕内力士の宝富士(たからふじ)をご存知でしょうか。

 今場所は絶好調で、きのうは負けたものの九日目にして7勝2敗の勝ち越し目前。あと六日間もあるからこの調子なら、勝ち越しどころか二桁も期待できる。

 以前は1勝7敗からの7連勝で千秋楽で勝ち越しを決めることもあり、「何か面白い力士」としてこの数年見守っていました。

 いつからか私は相撲の見方が変わって、応援する力士が勝っても負けても楽しいのです。たとえ今場所この宝富士関がこのまま六連敗して7勝8敗で負け越したとしても、不思議とあまりガッカリしないと思う。ヤッテクレタと思うのと同時にまた来場所が楽しみだと、きっと思える。十両に落ちた富士東も同じように応援中。二人とも見た目がいかにも「オスモウさん」という感じで気に入っている。二人共まだ二十代。

 以前は顔つきの良さで豪栄道を第一に応援していたが、大関昇進あたりから相撲がつまらなくなって距離感が出来てしまった。…


 今回、これ一体何の話をしているかというと、相撲を「見せ物」として楽しんでいるという話をしたいのです。勝つ時も負ける時も、堂々と豪快に、思い切った技と力を出し切った「勝負」をして欲しい。引き技で全勝して横綱になる位なら平幕のままで豪快に勝ったり負けたりして相撲を続けてもらいたい。 鑑賞して気分のイイ敗北があり、後味の悪い勝利もあることを親方衆も忘れないで欲しい。 もちろん相撲界の存続のためにも勝ちに執着する力士は必要なのだろうが、私にとって大相撲は芸術関係と同じ。自分の中にある色々な感情を引き出して浄化してくれる「見せ物」として、ハリウッド映画にも負けない、生きた感動をいつも届けてくれるのだ。


 ものすごく基本的なことなんだけど、「芸術」ってものは、五つのカテゴリーがあるように思う。 それは、

❶ 美術、

❷ 文芸、

❸ 音楽、

❹ 演芸・演劇、

❺ ゲームスポーツ。


 これらは全て「無用の用」という点で共通していて、まずその無用性が基本にある。

 例えば建築デザインが好きで芸術的なのも世に多いが、あくまでも応用美術、美術の応用だ。日本の伝統的な着物や陶器の類もそう。感動的なのものさえあるけど、実用性を逸脱しきっていないので、何かしら役に立つ以上、芸術そのものとはいえない。 いや応用芸術はたしかに芸術なんだけど、それを言い出したらキリがないから。

 純粋美術、純粋芸術は、その作品の影に「だから一体何なのだ」という無用性の虚しさみたいなものが必ずあるものだ。

 大相撲もプロ野球も同じで、イチロー選手の安打記録も、音楽のアーティストやお笑い芸人や俳優、美しい女優も、どんなに体を張って、命がけで頑張って本人も胸を張ったところで、社会に数ある問題課題の直接解決に何ら結びつかない。

 例えばこの数十年にもわたる日本の年間三万人の自殺者(毎年日本人の五千人に一人)にとって、また人生の深刻な悩みを抱える人にとっては、イチロー選手の間近に迫った大記録も明石家さんまの爆笑必至のアドリブ話芸も、千住博も、絵画作品一点八千万円の奈良美智も、松井や佐々木が年俸六億五千万で日本のプロ野球史上最高額だと騒いでいる頃に年収十億以上だった日本画家・平山郁夫も、遺産総額八千億円のピカソも、結果的には無意味で無用な「お遊び」であり、何の力にもなれなかった「ゴミ」みたいなものに過ぎない。

 だからたまに人から「芸術とは」なんて話になる度に、あんまりたいそうに言うなよな、と思ってしまう。生きていくのに特に必要ではないし、ある意味どうでもいいものだからこそ楽しみなのかも知れない。


 「美術」は私にとってはマンガも映画も含まれている。花火も美術に入るのだろうな。

 「そんなの『芸術』じゃないよ」と実績を振りかざして北野武がさも大家のようにエラソーに著書の中で書いても、子供の描いたラクガキもヘタクソだって何だって絵は絵なわけで、絵である以上は美術だし、つまりは芸術分野だ。そんなつまらないことで芸術分野を狭めてもらいたくないな。

 逆に、日本人は例えば手塚治虫を今よりもっともっと美術の大家であり巨人だと認識するべきだろう。彼の功績から見ても、戦略とはいえディズニーがいかに子供じみているかを世界は認めなければいかんと思う。そういいながら私もディズニー好きだけど。

 「文芸」という言葉は日本語の固有単語なんだけど、私には「文章芸術」、「文字による芸術」の略語に見えてしょうがない。つまり小説(文字で書かれた物語)、詩や短歌、歌詞なども。

 「音楽」は、美術と同様に芸術だと分かりやすいし世間でも認知されているだろう。

 「演芸・演劇」は、舞台芝居もそうだけど、紙芝居でも能や狂言文楽だって、落語も漫才もパントマイムもモノマネも、「すべらない話」も。そして古今東西のあらゆるダンス・踊りも、とにかく舞台で成立するものはみんな。ちなみにアメリカではアートの授業には美術と音楽のほかに、ダンスとドラマ(演劇)が加わるのだと、カリフォルニア州立大学の先生が言っていた。

 ドキュメンタリー映画は、映画だから音響と融合した映像の「美術」のようだがあれはそもそもが「報道」ってものだろう。もちろん芸術作品とも言える。

 昔「東京裁判」という8時間も掛かるドキュメンタリー映画名古屋駅近くのシネマスコーレという小さな映画館で観たことがあった。 休憩が三回くらいある。 揺さぶられるものは確かにあった。しかしそれ以上に疲れた。

 そして「ゲームスポーツ」。将棋やトランプゲームも含まれる。

 たとえば五郎丸のキックは芸術作品を観ているようだし、大相撲幕内取組の一番五分間というのも、およそ誰も認めないだろうが、結果の分からない一種の芸術作品を鑑賞しているみたいだ。私には応援できる力士がいて良かった。頑張れ宝富士!(つづく)



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無用の用

 以前、美術教育の学会などが集まる全国的な合同シンポジウムに行ったら、これからの日本の美術教育をどうするか、というような話し合いを全国から集まった美術の先生や講師たちが朝から夕方まで、ほぼ一日掛かりでしていた。海外の大学の美術講師も来ていた。

 内閣府からは学校の美術の先生に「現代社会で『役に立つ美術教育』をしてくれ」という厳しい要請があるという。あれもやれこれもやれという無理難題があるようで、先生たちはそれに対応しつつも困惑しているようだった。そう、中学生の子をもつ知人からも、体育と美術は現代の受験戦争の中では「ナンの役にも立たない」と以前聞いた事がある。

 その会議のさなかで、日本美術教育学会の会長であり大阪大学名誉教授の神林恒道氏が、ドスの利いた関西弁で、芸術、美術などというものはそもそも「無用の用」なんだ、というようなことをアカデミックな要素も交えながらみんなの前で整然と話した。

 そうか、「無用の用」か。

 最前列の真ん中で聴いていた私は深く納得する話でえらく気に入ってしまった。

 美術や芸術というやつはあまりにもつかみどころがなくて、まず正解というものがない。芸術論とかそういった話は色々あるのだろうけど、結局最後はこの一言で片付くのではないか。自分からすれば紙クズでも、他人には惹き込まれて快感を得る絵というものが世間にはあるのだ。遊びが直接何かに役立つわけではないが、遊びから得られることはたしかに多い。


 組織も権威も信頼も経済も個性というやつも、今日という日があればそれで良い人にとってどうでもいいことばかりだが、目に見える物には色、形、素材が必ず備わっていて、美術から人は逃れることが実は出来ない。だから美術論なんかどうでもいいというつもりはない。むしろ色々な美術論、芸術論があっていいし、それを読んだり聞いたりするのも楽しみでもある。

 ただ少なくとも個人への優しさがどこか無くてはならないとは思う。それは「配慮」という意味ではなくて、単に「愛情」の様なものだ。

 これから美術は、純粋美術にせよ応用美術にせよ、ますます個人に向けて「付加価値」としての威力を増していくのに間違いはないが、一方ではさらに「無用なもの」としてのイメージも増幅されるに違いない。そちらの方が圧倒的に多いだろう。あって当たり前になるし、美術を提供する側も割り切った考え方が必要となるだろう。

 随分前になるが、全盲で子育てをする女性のドキュメンタリー番組をテレビで見たことがある。六歳の一人娘は三輪車で母親をスーパーに連れて行き、二人で買い物をする。子供がキャベツやトマトのありかを母親に教え、またお互いに様々なことを伝え合う。小学校の入学式にも行く。母親が記者に言う。

「この子は、目が見えることの素晴らしさを教えてくれる」

 私にとってはその母親の言葉から教わる事はもの凄く多い。(つづく)



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アートの来た道

 人類最古の絵画、原始時代に描かれた「ラスコー洞窟の壁画」は、諸説あるだろうけど結局のところ「記録画」だったのだろうと私は勝手に思っている。

 その後農業革命が起きた古代には装飾・呪術美術が盛んになって「装飾画」が表わされるようになった。

 中世では宗教勢力が大きく力をもって「宗教画」が、近世では権力美術としてのあらゆる意味での「肖像画」、近代に入って商業美術としての「産業画」、現代では絵の印刷・映像美術が発達して個人のものとなり、「趣味画」が発生し広まったのではないだろうか。そこには当然マンガやアニメも含まれている。

 私はキチンとした美術教育を受けていないし美術評論家でもないのでこれらはあくまで私見で、門外漢のタワゴトとして読んで頂いても構わないが、人類の美術はおそらくそういう経緯を辿ったのではないだろうか。ちなみに「産業画」「趣味画」は私の造語。


 原始記録画は、のちに人の話す言葉との相乗効果で「文字」を誕生させ「文章」を作り、古代装飾画は「社会組織とファッション」を生み出し主張することを覚え、中世宗教画は「権威と勢力」を勃興させ、近世肖像画は「象徴と信頼」を意識させ、近代産業画は「市場経済と工業化」を促し、現代趣味画は「個性とマニア化」へと導いている気がする。応用美術の発展とも受け取れる。

 原始時代には必要なかったし意識さえしなかったものを美術、絵画はグイグイと人間の感性から引き出し、個人一人一人を覆ったものへと変化していっているのが分かる。

 穏やかに自然の中で素朴に暮らしていた人が、複雑な社会組織を意識させられ、そこに権威や勢力を見出し、やがて象徴と信頼、約束事などに追い立てられ、知らぬ間に市場経済や工業化に脅かされ、振り回され、気づけば半ば強制的に差別化と個性とマニア化に苛まれていっている、という風にも見える。

 組織も権威も信頼も経済も個性というものも、目の前に食い物があればそれで良かった原始の人にとってはおそらくどれもこれもが「それがどうした」ということばかりで、俺たちはどれもムリヤリ学ばされて億劫な感じがしないでもない。

 だが原始人がその原始的に手にしたテクノロジーで、思いを絵に表わして他人に分かってもらいたい、という純粋でシンプルな行為、記録画のようなものがたぶん絵画制作の原形だったのではないだろうか。それが私にとっての純粋美術、純粋絵画だ。

 原始時代の壁画みたいなものは、実は世界の至るところにあっただろうと想像している。壁画を見たその当時の周囲の人々は、あの牛や鹿の絵を観てどう思ったのだろうか。またどんな人がどんな思いであの絵を描いたのか。

 面白がって描いたら、

「オッ、いいねえ」と言う人もやっぱりいたと思う。

「そうそう、そんな感じだったよね」

「あん時、ツノ怖かったよなあ。ケガ大丈夫?」

「でも大きいのが穫れてよかったよなー、みんな喜んでたよ」

「また次も頑張ろうね。オレ新しい石斧削っとこうかな」

…なんて感じで盛り上がっただろうか。さらには原始人の手形や手垢が沢山残っているらしく、どこか優しさがあって私はあの絵が大好きだ。(つづく)



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旅行で絵を描く

 ニューヨークで風景画を好きになり、今度はオーストラリアで50日間旅行して自分で絵を描いてみた。これが結果的には今の私の小冊子作品集(ロードアート・ブックレットシリーズ)第一集「画豪(がごう)」なのです。そこにはその旅行での色んな出来事なども文章で書かれています。

 旅行で絵を描くのは思った以上に楽しくて、しんどいことも沢山あるが、充実感や楽しさが軽くそれらを上回った。描き上げた風景画はウィンスロー・ホーマーに比べれば無論足元にも及ばないけど、ひどく自分で愛着の湧くこととなり、旅行で気に入った風景を探して現地で描き上げるというやり方が常となっていった。

 いわゆるスケッチ旅行だが、少し違うのは一般にスケッチはあくまでスケッチ(写生、素描、試し描き)であり本制作ではない。私がやっているのは現地で描くのを強引に本制作としてしまう。独学なので画材や技法の知識不足からたまたまこういう考え方になったのだが、通常、絵画制作というのは、テーマを見つけて調査・取材を重ねてそのたびにスケッチや試作を描き、場合によってはそれも何枚も描き繰り返し構想を練り本制作に望む、というのが作業工程だ。
 私はいろんな作家の本制作ももちろん好きだが、試作段階の絵に価値を持ってしまった。
 とくに取材先の現地で作家が腕を振るったスケッチは臨場感があって、たとえ画面がよごれていてもリアルなものとしていつも注目している。絵というのは単に平面的な視覚物ではなくて、私にとっては立体物に感じられる。それも時空を超えた存在感のあるもの。そこには現地での絵に対する扱いがより濃く現れていて、その描かれた紙や絵の具のニオイさえ保存したいほどで、ときには本制作よりもスケッチの方が価値があるくらい。 スケッチなどというよりは、唯一無二の「現地制作物」という言い方のほうが相応しいくらい。そして旅行だからドキュメンタリータッチで様々な角度からストーリー性を持たせる事も、何枚かで連作のような事も出来るし、
それが私の独自の付加価値にしやすいのだろうと思う。

 そうしてその後もそのような旅行を国内でも何度もくり返した。やがてオーストラリアでの風景画、日本国内各地での風景画をとりまぜて選び出品したものが、以前このブログにも書いた「初めての個展」となったというわけです。さらにそこには美術・絵画の愛好家の方々がいて、たまたま私の描くものや描き方に興味を持つ方々がいた。
 さらにその後も旅行風景画制作は国内・海外で続き、作品の発表も近隣都市を地元名古屋も含めて七会場を巡回して作品を見て頂く巡回作品展「ロードアート・キャラバン」なるものも実践してみた。自分が旅行をした後、作品にも旅をさせたわけだ。予約販売という形の「行商」でもある。
 するとそこでも現地の色んな人々との遭遇があった。そこにはちゃんと絵画を楽しんで下さるお客さんがいて、お客さんから絵を褒められて嬉しいというよりも、絵画でお客さんが喜んで下さることで私も嬉しくなった。もしかすると私以上に私の絵に関心を持っているのではないかと思うようなお客さんもいた。
 画廊の企画展に出品しませんか?というお誘いを受ける事もあったし、各地の新聞社の取材も受けてきたし、現地のラジオ番組にゲストで呼んで頂いたこともあった。会場では画商さんや同じ画家との出会いも度々あるし、アートコレクターの存在も知った。プロ活動する詩人の男性とその奥さんからお声をかけて頂き沁み入るような笑顔で「あなたの絵には詩情があります」と誉めて頂いたのもインパクトがあった。観る方々の中に、私が勝手に描いているものに対して意味を見い出す人がいるということがだんだん明らかになっていくのが分かった。
 世の中は広いんだな、気に入ってくれる人が本当にいるのだな、ということを自分で知ると「まだほかにも喜ぶ人がいるかも知れない」と思い、そして「その人を探さなくてはいけない」さらには「もっとたくさん描いて広めなくてはいけない」と考えるようになっていった。
(つづく)


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